津軽百首(幻の十三湊)

哀しみの 砂と眠るは 十三湊 ひとり鷗よ 泣いてくれるな

かなしみの すなとねむるは とさみなと ひとりかもめよ ないてくれるな

かつて栄華を極めたと言われ、今は砂の中に眠る十三湊。
私と同じようにひとりでいる鷗よ、泣いてしまうから鳴かないでくれないか。

中世に栄えたと言われ、
歴史の砂にひっそりと眠る十三湊。

津軽史を調べていくうちに、
先人たちの歩んだ道の険しさを感じ、
言葉にならない思いでいっぱいです。

縄文時代は「北のまほろば」とも言われ、
穏やかに暮らしていたはずなのに。

文明の手が及ぶほどに、
どんどん暗く重い歴史の闇は深くなり、
自然に翻弄されながら耐え忍ぶ先人たち。

ああ。
どうして、これほどまでに悲しいのでしょうか。

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あの豊かな津軽平野一面の田んぼも、
多大なる犠牲の元に作られたと思うと、
たわわに実る稲は美しいはずなのに、
物悲しく見えてしまいます。

地吹雪がまるで人の泣き声のように聞こえるのは、
先人たちの心の声なのかもしれません。

忘れてはいけない。
そして、伝えていかなければいけない。

そんなことを思いながら、
また気持ちも新たに津軽百首に臨みたいと思います。

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木枯らしと娘とお友達

友の名を 呼ぶ我が吾子の 息白く 木枯らし包む 紅葉の手と手

とものなを よぶわがあこの いきしろく こがらしつつむ もみじのてとて

友達の名前を呼びながら駆け寄る我が子。
吐く息は白いし風も冷たかったのですが、二人とも冷たくて紅葉のように色づいた小さな手と手をぎゅっとにぎって、とても楽しそうでした。

プレ保育に通う娘ですが、
昨日は通園途中にお友達を発見。

大きな声で名前呼びながら、
嬉しそうに駆けて行きます。

娘を見つけたお友達も、
同じように娘の名前を呼んで、
二人仲良く小さな手を繋いで登園。

春からはこれが毎日の光景なんだなと、
頭では理解しているものの、
まだまだ現実味がないのも事実。

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おそらく、
来週にある幼稚園の制服注文の際、
試着をした姿を見て、実感するのかな。

小さな紅葉のような手が、
小さな紅葉のように色づいて。

それでも、
ふたりでぎゅっとしてればあったかいのでしょう。

ただ、プレ保育から帰って家に着くなり、
「もっとお友達と遊びたい」と
しょんぼり拗ねるのが可愛くもあり困った日々です。

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津軽百首(托鉢する僧に)

枯ら声と 鈴の音重ぬ 尾花野に 坊の涙も なくぞなからむ

からごえと れいのねかさぬ をばなのに ばうのなみだも なくぞなからむ

しわがれた声に鈴の音を重ねすすきが揺れる野を歩く托鉢の僧よ、涙は流さないだろうか、いや流したはずだ。
※かれをばな(枯れ尾花)の折句です。

しわがれた声と対照的に、
空気を清めるような鈴の音。

冷たい風が吹くすすき野を、
ただ一人歩く托鉢僧よ。

修行とはいえ、
物悲しくはないのだろうか。

涙は流さないのだろうか。
いや、流さないはずはない。

それでも、
人々の功徳を積むために。

僧は一人、ただ歩いていく。

 

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私が幼い頃、
曽祖母の家に遊びに行ったときのこと。

托鉢僧が訪れ、
曽祖母がご飯を施し、
両手を合わせ頭を下げ、
とてもありがたそうにお経を聞いておりました。

ひ孫である私も一緒に、
「とてもありがたいことだから」と、
お経をききました。

その時はわからなかったのですが、
大人になり色々な経験をして、
修行とはいえ、
人々の功徳を積むために托鉢をする僧は、
きっと流さない涙もあったのだろうと。

またこの首は「かれをばな(枯れ尾花)」の折句となっています。
それぞれの頭文字をみると、「か れ を ば な」です。

最近は隙間時間を使って、あらためて和歌を勉強中です。
奥が深いと感じる今日この頃です。

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乾き砂子によせて

泥濘に 隠るる涙 掬いあげ 胸に抱くか 乾き砂子よ

でいねいに かくるるなみだ すくいあげ むねにいだくか かわきすなごよ

ぬかるみに撒かれる乾き砂子よ。泥が隠した涙をすくい上げて慰めるからこそ、土は乾いていくのだろうか。

ぬかるみに撒かれる乾いた砂。
朝儀の時や蹴鞠の時に使われるとのこと。

乾いた砂が水を吸い、
泥から土に変わること。

ぬかるみというのは、
土が涙を溜め込んでいるのではないか。

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乾いた砂は、
その土の涙をすくい取って、
そっと抱き寄せて慰めるからこそ、
土が乾くのではないか。

もしそうならば、
乾いた砂よ、教えてほしい。

どうすればこの心の涙を消せるのだろうか。

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津軽百首(鶴の舞橋)

富士見湖の 水面にしづく 舞橋や いつぞ飛び立つ 田鶴にかはりて

ふじみこの みのもにしづく まいはしや いつぞとびたつ たづにかはりて

津軽富士見湖の湖面に映る鶴の舞橋よ、おまえはいつか鶴に姿を変えて飛び立つのだろうか。

青森県鶴田町にある津軽富士見湖。
そこに、鶴の舞橋と呼ばれる橋があります。

湖の湖面に映るその姿は、
鶴が羽を羽ばたかせているようにも見え、
とくに夕暮れの佇まいは、
筆舌しがたい美しさ。

春夏秋冬、
いづれの景色も美しく、
雄大な津軽を感じられる場所です。

美しいこの橋が、
いつか鶴に姿をかえて、
本当に飛び立つのではないか。

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そんなことを思わせてくれる、鶴の舞橋。

今は亡き祖父と、
母と祖母を軽自動車に乗せて、
免許取り立ての運転で行きました。

鶴田町は私が生まれ育ったところ。

今でもふと、
あの美しい夕暮れを思い出すのです。


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